怒っても拗ねても、すべてが愛なんだ。
人の感情や感覚というのは不思議なもので、怒りや哀しみは負のものとして排除しようとする働きが生理現象的としてあるように思う。
現に、周りの雰囲気を淀ませたり、何よりじぶん自身のエネルギーを下げる感覚も確かなのだけれど。
その感覚を持ったからと言って反省したりじぶんを責める必要はないのだと、ハッキリと分かった体験をした。
もちろん、必要以上に自制が効かず周りに当たり散らしたり、不快な思いをさせる事を良しとは思わない。
この体験から何を得たかと言うと、やはりじぶん自身の性質を知れたことなのだ。
わたしというヒトは、どんな風に不快に感じるのか、何をどう言われると心が哀しいと感じるのか、じぶんだけのエネルギーで独りで居るだけでは到底わからない。
(独りで居るという選択も、もちろんアリ!)
家族やパートナーなど、近しい存在との密な接触・対話によって、水辺に己の姿が投影されるかのように相手を通してじぶんを知る濃度は高くなると感じている。
ここでまた、関係性を拗らせない為にも大切なのは、素直な態度での言動と相手に心の内を全て見せる信頼の上にある潔さだ。
とにかく、その時に湧いた感情は発散すること。
相手に同じことを繰り返させない為に、それと同時にじぶんが不快な気持ちにならない為に、その時に必要なアクションがあるもの。
これがまた、心の内を見せれば見せるほどに相手との関係性は深まり、より愛おしさが増すという結末が待っているから面白い。
実を言うと、先にわたしの方がパートナーを不快にさせる発言をしてしまっていて、彼からその事について「もう言わないで欲しい」と、伝えられたという経緯があった。
その時は当事者にも関わらず、想いを伝えてくれる事に愛おしさを感じたのだった。
経験上、これは一切誰かを介在させずにじぶんと相手の二人だけで行うやり取りだからこそ、成立することだと思う。
例えば、それはスキンシップと同じ。
そして終えたことは、水に流すこと。
その感情は、文字通り水モノだ。
いつだって根底には、二人だけにしか分かり合えないであろう純度の高いエネルギーが存在するのだ。
何が起きたとしても、そこは必ず愛が在る。